Dawn Purple
    
 その店があるのは場末といってもいい場所だった。
 空が夜の帳に覆われ、街が昼間とは違う顔を見せ始める頃、ようやく「Dawn Purple」と書かれた小さなネオンにも灯が入る。
 しかし、古びてはいるものの、掃除の行き届いた店内に場末の雰囲気はない。押さえ目の照明。ゆったりと流れるジャズの物憂げな調べ。
 僅かばかり並んだカウンター席には殆ど人影はなく、たまに来るのは常連客ばかりだ。今夜もグラスを傾けているのはたった一人である。
 荒削りだが頬骨が高く端正な顔立ち。身なりには気を使わない質なのか、髪は肩に触れるほどの長さに達しており、頬から顎にかけては無精ひげが目立つ。
 それでもあまり薄汚れた印象がないのは、一見穏やかそうな緑灰色の瞳の奥にある鋭利な煌めきのせいか。
 名を「ソリッド・スネーク」と言う。
 勿論本名ではない。だがこの街では誰も本名など詮索しない。しても意味がないことを誰もが承知しているのだ。
 からん、と微かな音がした。スネークが手の中でゆっくり回しているオン・ザ・ロックの、氷の溶けかけた音ではない。
 扉が開いたのだ。
 カウンターの向こうでグラスを磨いていた初老のオーナー兼マスターがいらっしゃいませ、と言いかけて固まった。
 つられて扉の方を見るスネーク。緑灰色の瞳が僅かに見開かれた。
 半分ほど開いた扉の陰からひょっこり顔を覗かせているのは……白くて丸い発光体であった。
 大きさはバレーボールより一回り大きいくらいか。前面にはちゃんと目と口らしきものがあり、何故か度の強そうな眼鏡を掛けている。
 不気味さは微塵も感じられないが、人外のものであることは確実だ。
 しかし。
 驚愕に顔を強張らせているマスターとは対照的に、スネークの顔には苦笑らしきものが浮かんでいるのはどうしたことか。
 きょろきょろと店内を見回したそいつはスネークを見つけると、
「あ、いたいた〜」
 嬉しそうな声を上げてするりと入ってきた。きちんと扉を閉めたところを見ると、割と几帳面な性格(?)らしい。
 スネークの頬に刻まれた苦笑の影が、更に濃くなった。
「よくここがわかったな」
「はい〜、をたこんさんから聞いたんですぅ。固体さん時々このお店で飲んでるって……。いい雰囲気のお店ですねぇ〜」
 白くて丸いそれは間延びした口調でそう言うと、ひるひると宙を移動してスネークの右隣の席にちょこんと収まった。
「……お知り合いですか?」
 客と顔見知りと知ってようやく本来の冷静さを取り戻したか、硬直の呪縛の解けたマスターが尋ねた。
「ああ、ちょっとな。心配ない、こいつは人畜無害だ」
「見ての通りのヒトダマですぅ。固体さんには何かとお世話になってます」
 緩くウェーブのかかった前髪を揺らし、スツールの上でぺこりとお辞儀をするそいつ……ヒトダマ。
 とある事件で知り合い、現在はスネークの同居人(同居霊?)となっているそれは、どうしたわけかスネークを「固体さん」と呼ぶ。
 天然系で、怨霊にも情けをかけてしまうほどのお人好しだが、魔剣を所持していたりとんでもない破壊力の魔法が使えたりと謎は多い。
「お飲物は?」
 謎のヒトダマに向かって、当然のようにマスターがオーダーを訊く。
 流石に老練である。席に着いたからには例えそれが人外のものであっても客と見なしているのだ。
「水でいいだろ」
 横から口を挟むスネーク。
「ああん、私もお酒欲しいですぅ〜〜」
 ぱたぱたと丸っこい両手を振り回してヒトダマが抗議した。
「……金は?」
「あうっ……私に現金収入がないのを知っててそんなことを〜〜」
 失職中のヒトダマは、自発的にスネーク専任のハウスキーパーを買って出ている。現金収入などあろう筈もない。
 とはいえ、ヒトダマが失職したのにはスネークにも責任が(多少なりとも)あるのだが。
「冗談だ。一杯くらいなら奢ってやるから好きなものを頼め」
「やたっ。えーとね、そしたらぁ、サイドカーくださぁい。あ、心持ちブランデー多めでよろしくです」
 サイドカーはブランデーとレモンジュースを合わせたオーソドックスなカクテルだ。ろくにメニューも見ないで即断即決したところを見ると、どうやら一番のお気に入りなのだろう。
 ちゃっかりレシピに注文までつけて、全身に期待を詰め込んでサイドカーができあがるのを待っている様は、まるで子犬のようだ。
 子犬なら今頃ちぎれんばかりに尻尾を振っているんだろうな、と思いつつ何気なくヒトダマを見たスネークは、吹き出しそうになった。
 ヒトダマの尻尾もぴこぴこ動いている。
「……何ですか?」
「い、いや、何でもない」 
 こみ上げる笑いと悪戯への誘惑を奥歯で噛み殺すと、スネークはオン・ザ・ロックをあおった。
「そーいえば固体さん、あの後、大丈夫だったんですか?」
「あの後?」
 怪訝そうな顔をするスネークに、何故かヒトダマは声をひそめて、
「はあ……あのう、伍長さんが乗り込んでいった後……」
 と言った。
 途端に、スネークの表情が引き攣る。
 伍長といえばあの男しかいない。飄々とした外見に秘められた無敵の戦闘能力とセンス。スネークを本名呼び捨てにし、友人である凄腕ハンターのランダム・ハジルが敬意を払うその男は、周囲から「ミラー伍長」と呼ばれていた。
 ここぞと言うときは頼りになるが、その分たいそう「怖い人」でもある(いろいろな意味で)。
 ……特にスネークやランダムにとっては。
「ああああの、私止めようとしたんですけどね、そのぉ、私も瞬殺されちゃって、気が付いたときには伍長さん、固体さんのお部屋のソファで寝ちゃってたから、固体さんはどうしたのかなーって」
 大慌てでフォローしようとするヒトダマ(沈められた後、怪しげな夢を見ていたことは内緒である)。だがスネークの表情は冴えない。
「…………知りたいのか?」
 地を這うような低い声音で聞き返す。
「…………い、いえ、そのう、ご無事ならいいですぅ」
 何が起きたのか考えるのも怖かったのだろう。ワイルド・ターキーのボトルを取ると、空になったスネークのグラスに中身を注ぐ。
「……すまんな」
 少し表情を緩めてスネークは言った。考えてみれば、止めようとしてボロ雑巾状態にされたヒトダマも自分同様被害者なのだ。
「あれでも普段は実に温厚な人なんだが……」
「説得力ないですよ固体さぁん。……でも、ちこっとわかる気もします」
 よいしょ、とボトルをカウンターに置く。
「頼りになりますもんね、伍長さん。……ちょびっと怖い時もあるけど」
「だからお前たちの無茶のフォローを頼んだんだ。実際にRAYが出てきたら、あのランダムでも手を焼くだろうからな」
「はあ……すみませぇん」
 ヒトダマの体が一回り小さくなった。どうやら恐縮しているらしい。
(サイズ可変なのか。面白いヤツだな……)
 僅かに笑みを漏らすと、スネークはヒトダマの頭をぽんぽんと撫でた。
「まあ、無事だったならそれでいい。……ところでNATはどうしてる?」
「私が出てきた時はよく寝てましたよ〜。一時はどうなることかと思ったんですけど、今はだいぶ落ち着いたみたいで」
 NATとはもう一人の同居人である。なんと元はデジタル世界に存在するAIであったが、何の因果か現在は人間として生活しているのだ。
「NATさん、お酒なんて飲んだことないんでしょうねぇ」
「元はAIだからな。飲み食いの必要はなかっただろうし、その方面に興味があったようにも見えん」
 その飲みつけない、と言うよりも口にしたこともない酒を無理に飲まされたNATは、たった一口でひっくり返ってしまい、現在スネークの自室に寝かされている。
「飲めるようになるとといいのにな……あ、きたきた〜」
 お待たせいたしました、とマスターが差し出したグラスの中には、柔らかい朱鷺色の液体が揺れている。
 ヒトダマはグラスを手元に寄せると、嬉しそうに芳醇な香りを深々と吸い込んだ。
 一旦止まっていた尻尾が再び「ぴこぴこ」を始める。
「いい香り〜〜……固体さん、乾杯しません?」
「乾杯? 何にだ?」
「うーんと、そうだな……私たちの出会いに、とか」
 因みにこの二人、出会ってまだ一日しか経っていない。
「……冗談だろ」
「あ、あはは、やっぱりそうですよねえ」
 軽くいなされてしまい、再びしゅんとなるヒトダマ。尻尾の動きも止まってしまった。やはり感情の動きとシンクロしているようだ。
 小さくいただきます、と呟いてカクテルグラスを口元に運ぶ。
 と、その目の前に、まだ半分ほどワイルド・ターキーの残ったグラスが突き出された。
「?」
「乾杯。……するんだろ?」
 ヒトダマはきょとんとスネークの顔を見上げ、そのやや厳つい顔に悪戯っ子のような笑みが浮かんでいるのを認めると、ぱっと表情を明るくした。
 カクテルグラスの縁を、そっとオールドファッションド・グラスに触れさせる。
 ちん、と澄んだ小さな音が響き、琥珀色の液体と朱鷺色の液体が控えめな照明を反射して煌めく。 
「えへへ」
 自分から言い出したくせに何故か照れ笑いをすると、ヒトダマは改めてグラスに口を付けた。
「ああ〜、ものすご〜く美味しいですぅぅ〜〜」
 一口啜り、幸せこの上ないといった表情で溜息を吐くヒトダマ。
「おっ、いけるクチだな」
「はい、お酒は大好きですぅ」
「霊体も酔ったりするのか?」
「う〜ん、肉体がありませんから殆ど気分的なもんだとは思いますけどね〜。少なくとも私は程良く気持ちよくなりますです〜」
 大切そうにグラスを両手で抱え、ちびちびとサイドカーを飲むその丸い全身が、内側からほのかな桜色に染まっていく。
「同じスピリット(Spirit)か……」
「はい?」
「いや別に。で、さっきNATがどうとか言っていたが」
「はあ、NATさんもお酒飲めるようになればいいなって言ったんですぅ」
「NATがか」
 スネークはワイルド・ターキーを飲み干すと、上着の内ポケットから煙草を取り出した。
 一本銜えて、火を点ける。マスターがそっと灰皿をカウンターに置いた。
「ええ。NATさんもお酒飲めるようになったら三人でゆっくり飲みたいなーって。あっ、別に固体さんと差し向かいがやだってんじゃなくて、これはこれでそれはそれは嬉しいっつーか、贅沢っつーか」
 ヒトダマはとにかくスネークの熱心なファンだ。その、熱愛の対象ともいえる彼と生活を共にできるのはこの上ない贅沢だと思っているらしい。
 スネークは微苦笑を浮かべたまま、灰皿に煙草の灰を弾き落とした。
「しかし、NATが酒を飲めるようになる前に、お前のいた世界が見つかるかもしれんぞ」
「ああ、そうかあ……そしたら私、帰らなきゃなんないですねぇ」
「どうしても帰りたいか」
「そりゃまあ、向こうには知り合いもいますしー」
 ヒトダマの返事に、スネークはそうか、と呟くとグラスにワイルド・ターキーを注いだ。ボトルに残った中身は僅かである。もうそろそろ新しいボトルを入れた方がいいかもしれない。
「……お前にもお前の生活があったんだしな」
 考えてみれば十分不幸な話ではある。漸くみつけた(らしい)仕事をあっという間に失い、見知らぬ世界で路頭に迷った挙げ句故郷へ帰ることすらままならない状態なのだ。
 だがそんな悲壮さは、嬉しそうにサイドカーを啜っている姿からは微塵も感じられない。
 生来がのんびり屋なのか、単に順応性が高いだけなのか。
 そういえば、とスネークはふと思った。
 自分はこのヒトダマのことを何も知らない。
 もう一人の同居人のNATについては、本人に泥を吐かせたのでおおよそのことは知っている。だがこのヒトダマは……。
「でもねえ私、ちょっぴり思うんですよぅ。……このままでもいいかなーって」
「……何?」
 ヒトダマの思いがけない言葉に、スネークのグラスを持つ手が一瞬ぴくりと震える。
「向こうに帰っても、果たして新しいお勤め先が見つかるかどうかもわかりませんし、ヒトダマだから身よりがあるわけでもないし、それならいっそ、固体さんとこでずっとハウスキーパーしてたほうがいいのかな、なーんて、ね。それになにより……」
 楽しいんですぅ、と言うとヒトダマは残り少なくなったサイドカーに視線を落とした。
「固体さんがいて、NATさんがいて、ランダムさんや伍長さんや、なんやかんやで賑やかに毎日が過ぎていくのが。もし私にも『家族』ってものがあったとしたら、こんな感じなのかなって思うと……なんだか失うのが勿体なくて」
「『家族』か……生きてた頃にはいたんじゃないのか?」
 スネークにも家族がいる。トラブルメーカーでその後始末に追われてばかりいるが、幼いころは双子の弟とも仲がよかった。その思い出も記憶の隅に残っている。
 ヒトダマも「ヒトダマ」を名乗っているからには生前は人間だったのだろう。ならば親兄弟がいて当然だ。
 しかし。
「いた、とは思うんです。でも私、顔も名前も構成も知らないんですよねぇ」
 相変わらずのほほんとした口調でヒトダマはあっさりと否定した。
「……孤児だったのか?」
「いーえ、そんなんでもないんですけどぉ……う〜ん、どう説明すればいいのかなぁ」
 説明するのに適した言葉が見つからないらしい。つるんとした眉間に深々と皺が刻まれる。
「……差し支えなければ、最初から全部話してみたらどうだ?」
「差し支えはないんですけどね、随分むかーし昔のことだしそれに……」
「……それに?」
「……………私としてもあんまり楽しい話とは言えないんですよねぇ……」
 最後の一口をこくこくと飲み干してヒトダマ。小さく溜息を吐く。
 のほほんとして見えるがコレはコレなりに痛い過去を抱えているらしい。
 もっとも霊体として未だ現世に存在しているからには、それ相応の何かがあったことは明白なのだが。
(まだ無理に聞き出す必要もない……か)
 眉根を寄せたまま(眉らしい眉もないのだが)黙って空になったグラスを見つめているその丸っこい姿が何となく痛ましげに見え、スネークはそれ以上追求するのをやめた。
 いつか自分から話す日がくるのかもしれない。
 と、再びヒトダマが溜息を吐いて切なそうな声音で言った。
「ああ……なくなっちゃいましたぁ〜」
「そっちか!」
 思いっきり突っ込んでしまうスネーク。
 ぽこん、とスイカが熟れているかどうか品定めする時のような快音が響いた。
「え〜〜ん、何するんですか固体さぁん」
「こっちはそれなりに気を遣ってだなあ……いや、もういい」
「???」
 叩かれた頭を抱えながら、ヒトダマが涙目のまま?マークを周囲に散らす。
 カウンターの向こうでレコードを取り替えていたマスターが、くすりと笑みをこぼした。
 曲が変わる。馴染みのあるようなないような、とても耳に心地よい曲だ。ピアノの旋律にサックスの音が優しく寄り添い、穏やかな女声が柔らかくまとわりつく。
 スネークは短くなった煙草の先を灰皿に押しつけると、氷の溶けかけたグラスにワイルド・ターキーを注いだ。
「グラスをお取り替えしましょうか」
「いや、いい……ヒトダマ」
「はあ、なんでしょおか?」
 サイドカーを飲み終えてしまった上訳もわからず叩かれてちょっとブルー入った様子のヒトダマが、情けない表情でスネークを見上げる。
「オマケだ。もう一杯くらいなら頼んでもいいぞ」
「でもぉ……」
「なんだいらないのか?」
「そ、そんなこと、ないですぅ!」
 大慌てで今度はメニューに飛びつく。また尻尾が微妙にぴこぴこしているところを見ると、それなりに嬉しいらしい。
「今度はちょっと強めのもらおうかなあ……えーとねえ……」
 ヒトダマが指したカクテルの名称を見て、スネークが目を丸くする。
「お前大丈夫か? こんな強いの……」
「霊体ですからへーきですぅ」
「いやそれ、理由になってないだろ……」
「………二人してなーに盛り上がってんのさ」
 突然、聞き覚えのある声が背後から響いた。
 スネークとヒトダマの間からにゅっ、と顔を突き出させたのは、緑色の髪をしたまだうら若い女性、いやまだ少女と言っても通用するであろう。
 急性アルコール中毒でひっくり返っているはずのもう一人の同居人、NATである。
「お前、もう大丈夫なのか?」
「まだちょーっと胸がつっかえてる感じはするけどね」
 ひょいとヒトダマを持ち上げてスツールに腰を下ろす。
「気分転換に散歩に出てみたんだ。夜気を吸えばスッキリするかなーと思って」
 NATの膝の上に収まったヒトダマが身を反らすようにして(といっても球体なのでそうは見えないが)NATを見上げた。
「にしても、よくここがわかりましたねぇ」
 NATはこの場所を知らないはずなのだが……。
「スネークのナノマシンの反応を追ってきたんだよ」
 ほら俺ってデンパな人だから、と元AIの彼女はそう言ってスネークたちの前に置かれたグラスに目を留めた。
「俺も何か貰っていいかな」
「また倒れる気か」
「あんな気持ち悪いの、懲り懲りだよ……。喉乾いてるだけだからミネラルウォーターでもなんでもいいんだけど。ソフトドリンク、ってのもあるんだっけ?」
「……マスター、こいつにシンデレラでも作ってやってくれ」
「……シンデレラ?」
「オレンジとレモンとパイナップルのミックスジュースですよ。アルコールの分解早めるのにいいかも〜」
「ふーん……詳しいねヒトダマ」
「相当の酒好きだぞこいつは」
「ところでNATさあん、システムの復帰はできたんですかぁ?」
「動ける程度にはね。でもアルコールが全部抜けない限り全復帰は無理っぽいみたい」
 人間の体ってめんどくさいなあ、と軽く額を抑えるNAT。どうやら頭痛も抱えているようだ。
 いやお前が元AIだからめんどくさいんだよ、とすかさずスネークのツッコミが飛ぶ。
「システムの再インストを考えると下手に薬も飲ませられんしな……」
「帰ったら梅干し湯でも作りましょうかねぇ」
「お前、本当に変なこと知ってるな」
「スネークの部屋、梅干しなんてあったっけ?」
「お掃除の時に見つけましたぁ。おつまみ用のカリカリ梅でしたけどぉ」
「……それ、賞味期限とか大丈夫なの?」
「賞味期限の一ヶ月や二ヶ月くらいなら切れてても死にゃせん」
 どうやら伝説の傭兵は、自分の体で実証済みのようだ。
 しかしNATはうぇ〜っ、という表情でスネークを見ると、
「死ななくてもおなか痛くなるのとかはやだなあ」
「梅干しは保存食ですし、毒消し作用もありますから」
「……それって、ちゃんと自家製で漬けたヤツのことだろ」
「そんなに気になるならクレゾールでもブレンドするか?」
「スネークさっきと言ってることが違うぅ……」
 まるでトリオ漫才である。ツッコミ役に回ってしまった(というか、からかわれてる)NATは他人事だと思ってぇ、とかぼやきつつ、マスターが置いたグラスを何気なく手に取った。
 ろくに中身も確かめず口を付け……。
「あ、NATさんそれは……!」
「馬鹿、よせ!」
 スネークとヒトダマが同時に声を上げる。
 しかし時既に遅し。ぐいっと一口大きく煽ったその瞬間。
「げ、げふっ、な、何これっ……!!」
 胃の奥から強烈なアルコールの熱風が口腔内へと逆流してきてNATは噎せ返った。
「それ、私がさっきオーダーしたヤツで『アース・クェイク』って言うんですぅ〜〜」
「別名『アブ・ジン・スキー』。アブサンとジンとウィスキーの混合という凶悪な代物だ。3杯飲めば大地が揺らぐ。だから『アース・クェイク(地震)』という名がついているんだが……」
「いやそんな、解説は、どうでも、いい、から……」
 ぐらり、と顔を真っ赤に染めたNATの体が傾ぐ。
「おっと」
 後ろ向きにスツールから転げ落ちかけたところを、スネークのがっしりした腕が支える。
「な、NATさぁんしっかりしてぇ」
 マスターが手渡してくれた冷たいおしぼりを、NATの額やら頬やらにひたひた当てるヒトダマ。だがNATはぐんなりとスネークに体を預けたまま動かない。
 またも人事不省に陥ってしまったようだ。
「どどど、どうしましょう? 『クール・ダンセル』で冷やした方がいいんでしょうか?」
「……凍り付かせてどうする」
 ヒトダマが強力無比な魔法を自在にコントロール出来ることはその目で見て知っているが、この慌てぶりだとNATを氷漬けにしかねない。
 しかし、カウンター席しかないこの店で、まさか床に寝かせておくわけにもいかないだろう。
 と、マスターが控えめに声をかけた。
「一応、気分の悪くなられたお客様のために小部屋は用意してございますが」
「いや、こいつはこのまま連れて帰る。その方がよさそうだ」
 そっとNATの顔を覗き込む。再びアルコールの悪夢を見ているのか、NATは少々苦しそうだ。
「申し訳ございません。先にご忠告差し上げるべきでした」
「何、マスターのせいじゃない。こいつが迂闊すぎるんだ。……済まんが支払いは明日にでも改めてくるから、新しいボトル入れておいてくれ」
 ぐったりと力の抜けたNATを背負い、立ち上がるスネーク。
「ヒトダマ、帰るぞ……って、お前何してる?!」
「あ、だって勿体ないですもん〜〜」
 なんとヒトダマは、NATが飲み残した『アース・クェイク』を一気にくぃーっと飲み干したのだ。
「美味しかったですごちそうさまでしたあ」
 満足げな溜息と共にグラスを置き、律儀にぺこりと一例。
 全身が仄かな桜色に染まり、ほろ酔いといったところか。
「お前なあ、普通一気飲みするようなシロモンじゃあ……まあいい。帰るぞ」
「あ、少々お待ちを」
 呆れ声でヒトダマを促したスネークを、何故かマスターが引き留める。
「当店のサービスでございます。どうぞ、お受け取り下さい」
「……サービス?」
 この店に通うようになって随分経つが、土産を貰ったことなどついぞなかった。
 マスターが差し出したのは、小さなタッパーウェア。半透明のその中に、鮮紅色の物体が見て取れる。
 両手の塞がったスネークの代わりにそれを手に取ったヒトダマが、そっと蓋を開けた。
「……あ」
 中から仄かに立ち上る、酸味を含んだ芳醇な香り。
「……先日別のお客様から頂いたもので、ご実家の自家製だそうです。お裾分けで相済みませんが」
「いや、有り難い……感謝する」
 粋な計らいに、スネークの頬が緩んだ。
 この男には珍しく、軽く会釈などするとドアの向こうへと姿を消した。
「今度はゆ〜っくり飲みに来ますね〜」
 実は飲んべぇのヒトダマは、そっと蓋を閉じるとまたもぺこりと一礼して、
「ああん、固体さん待ってくださぁい〜〜」
 大急ぎで後を追って出て行く。
「……またのお越しをお待ちしております」
 マスターはちょっと癖のある常連客とちょっとどころの騒ぎではないその連れを見送ると、置き去りにされたままのグラスを引き上げてレコードプレイヤーを止めた。

「NATさん大丈夫ですかねえ」
 帰路についたスネークと並んで浮遊しながら、心配そうに意識のないNATの顔を覗き込むヒトダマ。
「目が覚めたらそいつで梅干し湯作ってやってくれ」
「熱ーいお茶も淹れた方がいいでしょうか?」
「そうだな……」
「NATさんとお酒を酌み交わすことが出来るようになるの、いつになるんでしょうね……」
 ヒトダマはまだ諦めていないらしい。夜霧に滲む街灯の光を見つめて一つ溜息。
 通り過ぎると同時に、後ろを追随していた影がふわりと前へ回り込み、淡い闇に融け込んで消える。
 スネークが、よっこらせとずり落ちかけたNATの体を揺すり上げた。
「さあな。永久に無理かもしれん」
「うう、残念ですぅ」
「それよりもっと大きな問題があるぞ」
「はい?」
「……伍長に知られたら俺たち、どんな目に遭わされるか……」
「……ひ、ひぇぇ」
 ヒトダマの丸い全身から桜色が一気に抜け、いつもの白色……いやいつもよりは若干青みを帯びた白に変わる。
 酔いが醒めてしまったらしい。
「か、帰りましょ。伍長さんにバレないように。そーっとそーっと」
「ああ、そうだな」
 苦笑混じりに答えながら、何気なく空を見上げる。
 いつしか黒から濃紺へ変わった空が、東へ行くに従って明るい紫へとグラデーションを描き始めている。
 次は、伍長も誘ってみようか。
 何故かそんなことを考えつつスネークは、前方で貰ったタッパーを振り回しながら早く早くとせかすヒトダマに向かって足を速めた。
  
 彼の背後で、街灯の灯がふっ、と消えた。

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